窮地に立たされたアパレル産業の再生

ご挨拶

窮地に立たされたアパレル産業の再生
洗濯工場から染工場そして・・

染め直しの定着と需要の拡大

株式会社福井プレス代表取締役の福井 伸です。

2003年に家業(クリーニング事業)を継ぐ形でスタートした弊社の染色加工事業も世界中を襲ったパンデミックの影響を受け、大きな変革を迎える事になりました。

多くの業界企業が激しいダメージを受け、ご苦労されている様を見ておりますと、弊社の事業形態にとってはこの世界的な流れをチャンスとして捉える事が出来た事は大変幸運であったと、強く感じております。

古着を染め直す「染め直し屋」事業は1着のお洋服を大切に長く着用するというお客様の気持ちがより高まり、染め直して着用するという新たな習慣が広く世間に認識される事となりました。また取引先のアパレル企業では「売って終わり」から「売ってからのお付き合い」という機運が高まり、アパレルメーカー主導のカラーメンテナンスサービス構築の動き等も活発化してまいりました。

染め直し屋事業は個人・法人共に従来の生産サイクルの大きな落ち込みをカバーするのに充分過ぎる成長を遂げており、この流れは一過性の物では無く、持続する仕組みへ移行していく事に確かな手応えを感じています。

廃棄物染めとキノコ栽培

またアパレル産業の落ち込みから危機感を持ち、異業種事業へと目を向ける事も大きな転機となりました。それは事業所から廃棄される産業廃棄物を染料に再利用する取り組みです。あらゆる業種からの資源を再利用する事を突き詰めてそれを起点に社内では次々と新規事業のアイディアが生まれました。

産業廃棄物を染料に再利用する事に挑戦した私たちが次に着目した事業は色素抽出後の残渣をキノコ栽培の培土に再利用するといった物でした。染工場が全く別の業界である農業分野に進出するというのは大きな挑戦というより一見無謀とも思える策でしたが、この取り組み事体に大きな社会的意義を感じられた事がモチベーションとなり、私達は迷う事無く新たな分野へ突き進む事が出来ました。後の研究結果として解る事ですが、珈琲粕やチャフ(珈琲豆の薄皮)から色素を煮出す工程がキノコの成長を阻害する物質を取り除く効果があり、染工場を経由する事でキノコが早く大きく成長する事に繋がる事が分かりました。またキノコには染料として利用出来る種類も多くあり、全くの異業種に進出したつもりであった私達をまた染色の世界へ呼び戻してくれた事はとても偶然とは思えない不思議な縁を感じています。

染食還スタート

パンデミックの影響で思いがけず異業種にも進出した私達でしたが、そこで培った技術を基に自社ブランド事業を立ち上げました。廃棄物を染色を通して地球に還す「染食還」です。廃棄物から生み出されるプロダクト製品の販売やワークショップを開催する事で地域の循環サイクルを知ってもらう活動を続けています。店舗内には様々な事業所から入手した廃棄物を展示する廃棄物美術館を設立し、地球資源を無駄無く使い切るサイクルを研究しています。請負加工業を生業としてきた私達にとって物を作る事と販売する事は全く別の難しさがあると痛感する日々ですが、直接エンドユーザー様と接する機会を持つ事は新鮮な喜びとなって積極的にイベントや催事へ参加しています。

新たな歩みをスタートさせた廃棄物染めと染食還ブランドですが、今年度2023年にはキノコ栽培ラボの設立を目指しております。今までは過度なエネルギーを必要とせず専門設備の無い家庭でも生産出来るゼロエミッションキノコ栽培の研究に取り組んで来ましたが、今後は事業レベルでの生産を視野に入れて活動を加速化させる事に致しました。廃棄物を培土としたキノコ菌床生産を皮切りに染料となるキノコの栽培や建材として利用出来るキノコ菌床ブロックを使った染食還アイテムの開発等を進めていく計画です。

地域で循環する染工場を目指して

2003年にクリーニング事業を母体とする家族経営の工場に導入した染色事業は20年の時を経て大きな発展を遂げました。最初の転機となったのは、それまで概念として無かった「自社の魅せ方」に焦点を当ててくれた社員の存在です。今では事業に参加してくれるスタッフにはそれぞれ専門性を学んだ優秀な人材がおり、これから変革を目指す工場の理想とする形成に活躍してくれる事と信じています。染色事業を立ち上げたばかりの20代だった私は自身が生きていく事に必死なだけで明確なビジョンも戦略も何も無い状態でした。50才を目前にした今、確かな目標を掲げて新しいゴールに向かって進んでいける体制が出来た事に強い手応えを感じています。共に働いてくれるスタッフはいつの間にか自分の子供世代と同じ年代のメンバーになっていますが、自分の子供たちやスタッフがこれから生きていく社会に必要とされる事業の形に成長を遂げる様にバトンを繋ぐ時が来たと大きな責任も感じているところです。 

(2022年12月30日自宅にて) 

代表の福井 伸です。ここでは弊社が染色の仕事を導入する経緯について、少し長くなりますがお話しさせていただければと思います。

私が初めて染色をするきっかけとなったのは、染工場に染料を販売する商社に入社(2000年)してからになります。入社してすぐ染色試験室(ラボ)と呼ばれる部署に配属され、毎日色合わせ試験を行う日々がスタートしました。これが私の行う初めての染色でした。

染料販売の会社は染工場で染めるレサイプデータを作る作業を代行業務としてサービス提供していましたので、ラボでは主にその色見本づくりを行いました。

染工場の顧客先であるアパレル会社デザイナー等の色指示を忠実に再現できるように試験染めを繰り返し行います。この色合わせというのは主にイエロー、レッド、ブルーの3原色を配合させて色を作っていくのですが、慣れないうちは1つの色合わせを行うのに何時間もかかってしまって大変な思いをしたものでした。

また染工場を飛び越してあちらこちらの知らないデザイナーからひっきりなしに催促の電話が入ってきたりと、精神的にもかなりキツイ仕事です。今思えばあの当時の経験が現在大変貴重な技術となり生かされているので、
とてもありがたいことだったのですが、当時の私にとって楽しいと思える仕事ではなく、なんとか早く一人前になって営業として外回りの仕事に就けないものかと毎日考えていました。

入社して半年くらい経った頃、ようやく念願の外回り営業に上司に連れられ出ていけるようになりました。私の会社は大阪、京都、奈良の3都市にある染工場と取引していて、
大阪は綿の染色、主にニットの原反を染めている工場が多くありました。奈良には地場産業であるパンスト・ソックスを製品染めしている工場が、京都には手工芸の工場や織物を染める工場がありました。
染工場といってもそれぞれ染める品が違うと機械や工場の作りまで大きく変わることに驚きます。原毛、糸、ニット地、織物、製品等、同じ繊維でも形状が変わると染める機械がまったく違ってくるので、見事なまでに専業化が確立されておりました。

この頃すでに染工場の良い時代は終わりつつあって、どこに行っても「昔はよかった話」になってしまい、先行きの不安感を口にされる経営者の方が非常に多かったです。
生産のほとんどが海外に移され、国内の生産量は毎年減少していき、いつ廃業してもおかしくない、そんな話ばかり聞かされていました。当時私は25歳でしたので、
親切な染工場経営者のお客さんに至っては「今からでも遅くはないからこんな業界辞めて他の道を探しなさい」とまで心配されてもいました。

しかし、この業界全体を覆う大きな閉塞感は、実のところ私にとっては大変魅力的でありました。なぜなら当時の私の大きな夢の一つに、
実家のクリーニング工場に染めの仕事を取り入れるという考えがあったからです。

現在ある染工場の大きな問題点は、規模が大きいために生産量が少なくなってきている現実に十分対応できていないということでした。
わずか数kgの染色依頼に対して30kg、50kgを一気に処理できる加工機械を動かすという無駄が日常的に生じていたのです。
また、あまりに生産のすみわけが確立されすぎていて、専門外の加工を受けることに消極的だったのも問題だと感じていました。

加工の全体量が減ってきているにもかかわらず、新しい素材への染色にトライする気概がこの頃の工場からはあまり感じられませんでした。
これはリスクを大きく伴うことでもあるので仕方がない面もあるのですが、当時の私はこのような業界の実情を肌で感じ、小ロットかつ素材形状を選ばない加工工場があればまだ充分な需要があるのではないかと考えるようになったのです。

入社3年目(2003年)に染料販売会社を退社し、実家のクリーニング工場に戻ることにしました。当時は染工場の廃業が多く、染色機械の入手が容易であったことが私の決断を早めました。
今となっては考えられないような高価な機械が破格の低価格で放り出されていたすごい時代です。私はできるだけ様々な形状の品を染められる数種類の機械を選び、
加工処理量は見本機として使われていた小型なものを中心に導入しました。ラボで使用していた試験用の染色機も導入して、多様な案件の仕事に対応できる体制を組みました。
また、従来からあったクリーニング設備も併用して使えるのでさらに業務のバリエーションが広がりました。プレス仕上げまで行える染工場は今でも滅多に存在しません。
ここに私の目指していた「あらゆる仕事内容に小回りを利かせて対応できる工場」が完成しました。

現実問題として、設備だけ導入しても現場経験のない私が業務を遂行していくのは困難を極めました。しかし大変ありがたいことに、
染料販売会社時代の上司や染料薬品メーカーの営業・技術の方、多くの染工場現場スタッフの皆さまから快くアドバイスを受けることができる立場だったので、
業界に入って4、5年の駆け出し染色職人ではありましたが、なんとか工場を軌道に乗せて現在に至ります。

工場は当初思い描いていた理想の形になりつつありますが、いつまでも現状に満足することなく新しいことに挑戦する努力を惜しまぬよう、これからも邁進していく所存です。

長くなりましたが、弊社の染色事業を導入するに至るきっかけについてご説明いたしました。これをもってご挨拶に代えさせていただきます。

ご挨拶